この言葉についてだが、キリスト教以前と以後ではやはり意味合いが異なるらしい。
「どうせ死ぬんだから今を楽しもう」から「人間の死亡率は100%であることを忘れるな」へのシフトチェンジは、そう変わらないようだが、やはり違うようだ。
ウィキペディア 「メメント・モリ」の項その意味では、親鸞の『御文章』のうちの「白骨の章」など、よく知られた文章ではあるが、ここで説かれていることはまさに核心を突いているといえるだろう。
以前、これを葬儀の席で聞く機会に恵まれ、その清冽さに、背筋が引き締まり、と同時に清涼な空気を吸ったときのような、なんともいえない爽やかさを感じたのをよく覚えている。
まさに、諸宗教家の遺した教えの中でも、卓越した、法語の零度である。
「白骨の章」それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
- 2008/08/07(木) 20:01:43|
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